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「捨てられた島?長崎県端島の恐ろしい歴史とは」抜粋記事

「捨てられた島?長崎県端島の恐ろしい歴史とは」抜粋記事
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長崎県にある端島は人気観光地のひとつでした。しかし、現在はゴーストタウンと化した島になってしまっています。更に、この島には最近になって恐ろしい過去が明らかになりました。端島がユネスコ世界遺産に認定されてから、この島の強制労働の歴史に関する意識を高めるよう、ユネスコから日本政府に指令が出たのです。さて、どこで道を誤ってしまったのでしょうか?端島は地球上で最も人口密度が高い場所という場所から、現在は住人が一人もいない孤立した場所になってしまっていったのです。どうやら全ての出来事は、たった一夜で起きたようなのです。現在の端島に残されているのは、刑務所のようなコンクリートのビルと、採掘シャフトにとりついた拷問を受けた人の魂のみなのです・・・

自分達だけで端島に向かうことはできない

Richard Atrero de Guzman/NurPhoto via Getty Images
軍艦島として知られている端島は、長い間忘れ去られていました。この小さな軍艦の形をした土地は、日本の沿岸沿いに位置しています。ここへはボートで向かうことしかできません。長崎から小1時間で行くことができますが、1人で行くのであれば手段を見つけるのに苦労するはずです。

正確に言えば、ご自身で端島に言うことはできません。建物はめちゃくちゃで、いつ崩れてしまってもおかしくないのです。観光客がいつ訪れてもいいかを決めるのは、政府です。いくつかの企業がグループツアーを提供していますが、ジャーナリストか特別な許可を得たメディアでない限り、勝手にこの島を歩き回ることはできません。

危険な軍艦島周辺の海域?

BEHROUZ MEHRI/AFP/Getty Images
端島が「軍艦島」の名を得たのは、その見た目が理由です。ここに行きつくために船が軍艦のごとく危険な海と戦わなくてはいけない、ということではありません。しかし、荒れ模様の天候であれば特に、周辺の海域は危険です。風、雨、ちょっとした雲でさえ波を荒れさせて、岩の多い岸辺の視界を悪くします。言い換えれば、太陽が出ていなければここに行きつくことは難しいということです。

荒れ模様の天気が理由で、この島へのツアーは1年に100日ほどしか行われていません。頻繁にキャンセルされて、時には島へ向かう途中でキャンセルされます。幸いにも、ほとんどのツアー会社が日程変更または全額または一部返金を行っています。意図せずに魚と泳ぐ羽目になるよりはマシですよね。

元々は炭鉱施設だった端島

John S Lander/LightRocket via Getty Images
端島は、表面的には驚くような島ではないでしょう。たくさんある無人島のひとつでしかありません。荒れていて、緑や植物によってもたらされる動物にも乏しい場所です。元々幽霊のような島だったのです。そんな時、端島は石炭が豊富であるということがわかります。

1890年に三菱が島を買収し、深海底採鉱を開始。その後、199メートルの採鉱シャフトが埋め込まれました。1つ目は1895年、2つ目は1898年にです。結果的に、同企業は炭鉱労働者とその家族を島に送り込み、ここで生活しながら仕事をするようにさせました。1916年までには、端島は150,000トンもの石炭を掘り出して、この小さな島には3,000人以上が暮らしていました。

開発を進めた三菱

Yuriko Nakao/Getty Images
炭鉱がかなりの成功を収めており、見たところ尽きることない量の石炭に恵まれていたため、三菱は巨大な炭鉱からのスラグを利用した埋め立て地計画で、小さな島を拡大しました。言い換えれば。三菱は、新しい土地を海上に作り出したのです。しかし、それでもすべての産業施設やここで働く人々は収まりません。

この時期、コンクリート製の刑務所のようなアパートが島中に建設されました。第2次世界大戦中に日本中でコンクリートプロジェクトが失速しても、建設が止まることはありませんでした。可能な限り人を詰め込んでいたのです。文字通り、ぎゅうぎゅう詰め状態でした。

日本で最も高いアパート

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日本には高層ビルが多数立っており、さらに大きなビルも現在建設中です。2041年には、最大の木製の高層ビルが東京に完成する予定です。この建物は、350メートルほどになると報道されていますが、日本にとって最も驚きの建造物になるとは言えないかもしれません。現在、東京スカイツリーが日本で最も大きな建造物を誇っています。高さ634メートルです。しかし、これは最近の話。

端島の全盛期には、三菱が日本で最大のコンクリートのビルを防波堤内に建設しました。当時は驚きの9階建てです。

異常だった端島の人口密度

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アジアの国々は、人口密度が高いことで知られています。香港の九龍城砦は、元々1810年に軍事的な城塞として建設され、1940年代後半には不法占拠者の温床となりました。端島の異常な人口密度は、これから10年後のことです。

端島の人口は、1959年にピークを迎えます。5,259名が生活していました。大した数には思えないかもしれません。ただ、0.05平方キロメートルの場所に集中していたということを考慮すれば、話は違ってきます。人口密度は、驚きの2.5平方キロメートルごとに216,264人の計算です。この刑務所のようなビルは、全員が治まる様に9階まで伸びています。比較を見て見ると、世界で最も人口密度が高い街とされる香港でも、2.5平方キロメートル当たり17,000名が居住している計算です。

ミニ都市状態

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ちょっと見てみましょうか。端島は、サッカー場12個分ほどの大きさしかありません。端から端まで歩くのに、数分あれば十分です。しかし、三菱はこの島を小さな都市に変貌させる計画を止めることはありませんでした。島には30棟以上のコンクリートのビル、店、スーパー、バー、レストラン、学校、病院、図書館、運動場、美容院、映画館、寺院、アウトドアのプールまで立ち並んでいました。しかし、この状態は長くは続きません。

島の下には、採掘シャフトがクモの巣のように張り巡らされています。1941年までには、1年間に410,000トンとどの石炭が採掘されていました。

戦いに等しい軍艦島での暮らし

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家族全員が一部屋に押し込められているところを想像してみてください。端島の住人であれば、これは当たり前のこと。ほとんどの家族が一部屋の小さな部屋に住んでおり、外の世界を当てにしていました。このお陰で、船が端島の危険な海域を超えることができない台風が来ようものなら、人びとは飢餓に苦しむことになったのです。

仕事だって楽ではありません。海底1,000メートルとなれば、炭坑内はかなりじめじめしています。シャフトはガタガタで危険です。頻繁に倒壊して、毒性のある煙が充満したり、ガス爆発の危険にさらされたりしました。第2次世界大戦前には200名ほどが死亡し、その後はさらに多くが命を奪われています。

強制労働の暗い歴史

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端島には暗い歴史があります。ひどい仕事環境に作業者を追いやったのは、三菱だけではありません。第2次世界大戦中、日本は強制労働の温床でした。41,000名ほどの囚人が日本に送られ、驚きの3,756名が端島に配備されます。囚人たちはここでひどい環境で石炭を掘り起こし、ひどい栄養不足で生きる骸骨と化していきました。骨が皮膚から飛び出して、多くは生き残ることができませんでした。

14歳で端島に送られ何とか生き延びたシュン・ゾングさんは次のように話しています。「1日の仕事量をこなせなかったら、奴隷として扱われます」。

巨大な監獄のようだった端島

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端島は、元から刑務所のような場所だったわけではありません。しかし、途中で住人を高い波から守るためにコンクリートの防波堤が建てられます。その後、本物の囚人たちが送られるようになったのです。

ゾングさんは、島自体が刑務所のように感じたと話しています。逃げようとする労働者は、海に落ちて溺死します。生きて逃げおおせた人はいません。自殺する人もいました。これほどの屈辱に耐えられなかったためです。第2次世界大戦が終わるころまでには、722名の中国人労働者、1,442名の韓国人労働者が、軍艦島の高いコンクリートの壁の向こうで拷問されなくなりました。

最も危険な仕事を担ったのは戦争捕虜たち

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多くの日本人の健康な住民は、第二次世界大戦中に戦場に送り込まれました。これによって、端島の作業場には大きな穴が空きます。もちろん、ただ単に石炭の生産量を減らすことはできません。無視できない資源とお金がかかっているのです。代わりに、日本は戦争捕虜たちを最も危険な作業に送り込みました。また、最悪の労働環境にあったのも彼らです。

日本の戦争捕虜たちは、かなり汚い環境に住まわされ、ほとんど食事も与えられませんでした。多くが炭鉱で倒れて、毎月端島では3~5名の捕虜が死亡していたとされています。

死体を対処するために火葬場を設置

Yuriko Nakao/Getty Images
端島には死体を埋める場所がありません。端まで建物がびっしりと建てられており、地下には炭鉱のネットワークが広がっています。端島の劣悪な環境で亡くなったこれらの戦争捕虜の死体を処理するために、町は火葬場を建設。

火葬場は24時間稼働して、ほぼ常に煙突から煙が上がっている状態でした。飢餓、事故、自殺、重労働によって失われた命を思い出させるような光景です。1945年に長崎に原爆が投下され、端島の戦争捕虜たちは遂に解放されました。

日本の回復において重要な役割を担った端島

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2つの原爆が国民の上に投下され、何千もの命が失われた後の日本は厳しいものでした。第二次世界大戦での敗北は、屈辱的であり、そうでなければ輝かしかったであろう日本の歴史における、黒歴史であると考えられています。端島は、日本の回復において大きな役割を果たしました。

1950年初期の朝鮮戦争中、日本の経済は目まぐるしく成長します。端島は今まで以上に多くの石炭を生産し、島の住民たちはテレビや冷蔵庫を購入していくようになりました。これらの製品は、元々は金持ちのためだけのものだったのです。贅沢品のお陰で、島の住民は本州とのつながりが可能になり、より自立していきました。冷蔵庫を手にしたおかげで、常に新鮮な食料が送られてくる必要が減ったのです。

1957年、ついに島に真水が!

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1957年、島には遂に真水精製システムが導入されます。海底のポンプで長崎の貯水地とつながったのです。このお陰で、人びとは果実や野菜を育てることができるようになりました。たくさんの屋上ガーデンが作られるようになります。これ以前は、新鮮な果実や野菜はぜいたく品と考えられていました。

端島は栄えており、島での生活の質は今までないほど改善したように思われていたものの、状況は変わろうとしていました。端島は、日本の石炭からの大きな移行に耐えられなかったのです。これこそ、島が急激にゴーストタウン化した理由です。

石油にシフトしたことで破壊された端島の労働者たちの生活

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端島は1959年に全盛期を迎えます。しかし、60年代になると、日本は石炭から石油にシフトしていきました。石炭会社はすぐに時代遅れとなり、この時代に国中の多くの石炭会社が倒産。端島は石炭を生産し続けたものの、終わりの時が近づいていました。

1974年、端島はその歴史に幕を閉じました。炭坑は枯渇し、すでに落ちかけていた石炭の価格を考えるとかなりの負担になるほどシャフトが長く伸びすぎたのです。別の言葉で言えば、営業を続ける価値がなくなったということです。

一夜にしてゴーストタウンになった端島

Yuriko Nakao/Getty Images
炭鉱が枯渇して、島での作業が正式に終了すると、住人たちは端島のぎゅうぎゅう詰めのアパートで生活する理由がなくなりました。残された人達は、一夜にして島を去ったのです。最も人口密度が高い場所から、実質住人のいない場所に早変わりします。

住民たちがあまりに急に島を去ったため、この場所はかなり保存状態のよいゴーストタウンとなっています。人々はほぼすべての持ち物を置き去りにしていきました。石炭採掘器具は、作業中のまま置き去り。島を清掃して一掃するにはコストがかかり過ぎるということが証明され、そのまま放置されることとなりました。

現在の唯一の住民は野良猫とネズミ

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現在、このコンクリートの町は、完全に放置されています。訪問者たちは、アパートの中に入っていって、住人が重なり合うように一夜の内に船で去ってしまったときに残されたまま様子を見ることができます。1960年代のタイプカプセルのようです。ビンテージのテレビ、当時のモダンな家具セットなど。朽ちていくテーブルの上に置き去りにされた出しっぱなしのお皿まであります。

島内の唯一の生き物は、取り残されたペットのネコの子孫だと思われる野良猫と、置き去りのトンネル内をはい回るネズミの一団のみです。

コンクリートの壁に落書きをした都市探検家たち

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たくさんのコンクリートの壁があるということは、破壊活動を行えるスペースがたくさんあるということ。都市探検家数名がこの島に訪れ、その足跡を瓦礫に残していきました。辛辣な落書きのひとつにはこう書かれています。「端島は終わった。この場所は死んでいる」。

捨てられた病院には、かなり前に期限が切れた薬が訪れることのない患者を根気強く待ち続けています。医療機器は新品に近い状態ですが、かなりの量の埃が溜まっています。レストランの冷蔵庫には、腐った食品の残りが大量に詰まっています。電力はとうの昔に切られてました。学校内では教科書が机に並べられたまま。今から授業が始まるかのようにです。

呪われた島?

Yuriko Nakao/Getty Images
これだけのひどい歴史を抱えていることを考えると、多くの島の訪問者がこの場所が呪われている、と主張したとしてもおかしくありません。建物内に入った人は、地下からうめき声や叫びが聞こえたと話しています。説明が出来ない冷たい空気を感じた、ゾッとするような手に捕まれたと言う人もいます。岸のあたりからチカチカする光を見たと報告した船もありますが、電気は切られているはずです。

ご自身の目で幽霊を見たいという方は運の尽き。端島は現在一般には公開されておらず、特別な許可を必要とします。

保護された歴史的場所

JIJI PRESS/AFP/Getty Images)
2015年7月、日本の明治産業革命におけるその活躍から、ユネスコ世界遺産に認定された端島。また、この荒涼とした建物のお陰で、人気の映画撮影ロケーションにもなっています。『インセプション』では、背景として使用されました。ジェームズ・ボンド映画の『007 スカイフォール』では、敵のラウル・シルバの隠れ家として使用されています。

2009年に端島が観光客に開かれてから、この場所は最も人気の観光地となりました。もちろん、建物の多くがかなり危険な状態にあるため、一般に開かれているエリアはかなり限定されています。

【おわり】この記事を見て

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