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「夫が突然の失踪。23年後、妻がついに突き止めた真実とは」抜粋記事

「夫が突然の失踪。23年後、妻がついに突き止めた真実とは」抜粋記事
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「夫が突然の失踪。23年後、妻がついに突き止めた真実とは」の抜粋記事です。写真は引用元からの掲載、文章は短く自分で紹介しています。写真は引用元からの掲載、文章は短く自分で紹介しています。オリジナルの素晴らしく詳しい記事の文章が気になる方は、元記事を御覧ください。

リンダ・アイゼラーとリチャード・ホーグランドは、一見すると、まるで理想的な夫婦だった。だがその幸せは、1993年にリチャードが謎の失踪を遂げたことによって、突然終わりを迎えてしまう。残されたリンダには、2人の息子がいたが、お金も残されておらず、希望は見えなかった。当然、リンダは女手一つで息子たちを育てざるを得なかった。その後、警察当局は、リンダを疑って、家族の動向を追い続けた。

残されたリンダと息子たちは、困窮した日々を送り続けることとなる。そして23年後の運命の日、ついに全ての謎が解き明かされるのだ。リチャードには、一体何が起こったのだろうか。この衝撃的な悲劇のストーリーをその目でじっくりとご確認いただきたい。

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まじで心が折れそうでした。ほんと。抜粋も辛いです…。ではどうぞ。

父親の失踪する1週間前までは、普通のどこにでもある家庭だった

リンダとリチャードは、平凡で幸せな家庭を築いていた。夫婦は、インディアナ州インディアナポリスに居を構え、そこでマシューとダグラスと名付けた2人の息子を授かった。もちろん、たまには家計や子どもたちのことについてケンカをすることもあったが、それはどこの家庭にもあるようなもので、深刻な問題になることはなかった。

すべてが変わったのは、マシューが9歳、ダグラスが6歳になったときだった。リチャードはどうやら、重大な秘密を隠していたようだ。家族内でその秘密の真実を知るのはただ1人、リチャードだけだった。

恐るべき秘密

日が経つにつれ、リチャードの気持ちは家族から離れていっていたようだった。もちろん、妻であるリンダは、そんなリチャードの様子に気がついていたものの、気のせいだと自分に言い聞かせることにしていた。一見幸せそうに見えたこの家族は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくことになるのだ。

子どもたちは可哀想に、自分たちの人生にこの先何が起こるかなんて、予想だにしていなかった。どうやらリチャードが抱える問題は、解決することはおろか、それについて話すこともしたくないようだった。これは後になって分かったことだが、リチャードは家族といた間中もずっと、誰も予測することすらできなかった計画を1人で綿密に練っていたようだったのだ。

予想外の電話

1993年2月、いつものようにリンダは仕事に出かけた。リンダは診療所で働いていたのだが、2月10日午後4時45分、リチャードから一本の電話を受ける。リチャードが言うには、具合が悪いため、救急外来に行ってくる、ということだった。

リンダは、私も救急病院に向かおうか?とリチャードに尋ねたのだが、リチャードはそれを「待っていられない」とのことだった。これから何が起ころうとしているのか、リンダはまったく知る由もなかった。リンダは結局、いつも通りに仕事を終えると、息子ダグラスを迎えに行くため保育園に向かった。家に着いたのは午後5時25分。そして、もう1人の息子マシューが1人で家に残されていることに気づいて、リンダは愕然とするのだった。

残された家族の生活

リンダは、急いで地元の病院のすべてに電話をしたが、どこの病院にも、リチャードが来た記録は見当たらなかった。家の洗面所にはリチャードの歯ブラシがあり、クローゼットにも服がかけられ、パスポートに至っては触った形跡もなかった。リチャードが、突然家出をしてしまうような手がかりは、まったくどこにもなかったのだ。「すごく寒い時期でした。2月でしたもの。それでも、リチャードはコートさえ持っていかなかったんです。」とリンダは語っている。

一瞬のうちに、幸せな家庭は崩壊した。リチャードには離婚歴があったが、リンダに出会って恋に落ちたと語っていた。事業にも成功し、家族そろって贅沢な休暇を過ごすこともあった。こんなに順風満帆な生活を送っていたにも関わらず、突然、黙って姿を消すことなどあるのだろうか。

砕け散った生活

それから1時間もしないうちに、家族は1本の電話によって、大きな衝撃を受けることになる。その電話はリチャードからだった。リチャードは「こんな生活はもう耐えられないんだ。俺がいない方がいいと思う。」とだけ伝えると、リンダが口を開く前に、一方的に電話を切ってしまった。

数時間後、リチャードは再び電話をかけてきたかと思うと、「俺は刑務所なんてごめんだ。もう二度と戻ってくるつもりはないから。」と告げた。24時間の間に、リチャードは家族と、これまでの人生を捨てたのだった。1993年2月10日、リチャードは姿を消した。

リチャードの逃亡

リチャードの最後の電話から数日後、リチャード・ホーグランドが所有する車が捨て去られているのが見つかった。航空会社や航空記録などもくまなく捜索されたが、リチャードの名前はどこにも見当たらなかった。その後、リチャードから2度ほど電話があったが、毎回コレクトコールを使ってかけてきていた。リンダは、その通話記録を基に、リチャードがそれぞれ、ベネズエラとアルバから電話をかけていたことを明らかにした。

一家の大黒柱が跡形もなく消えてしまったことは、リンダらにとって最悪の事態だった。リンダも子どもたちも、リチャードがいなくなってしまったことについて、何とか気持ちを落ち着かせようとしていた。一方で、警察当局は、リチャードの謎の失踪について調査を始めるのだった。

隠された金銭問題

その春、リチャードは息子マシューの10歳の誕生日に、50ドル札を入れたカードを送ってきた。数ヶ月後、もう1人の息子ダグラスの7歳の誕生日にも、やはり同じようにお金を入れたカードを送ってきている。そして、息子らにとって、これが父親からの最後の連絡になったのだ。

どうやら、リチャードには突然の失踪前に、家族の知らない金銭問題があったようだ。持っていたクレジットカードはすべて、その上限額まで使っていたし、銀行からローンを組むのに、リンダ名義でサインまでしていた。リンダは離婚を申請し、裁判官はリチャードに対し、未払いの税金や、様々なローンと借金、そしてクレジットカードの返済を支払うように命じた。

打ちひしがれる家族

リチャードは、息子らに宛てたカードに「愛してるよ。会いたいと思ってる。このお金をママに渡して、使い道を考えるといい。いくらかは貯金で残してもいいかもしれない。もしかしたらすぐに会えるのかもしれない。でも随分長いこと会ってないから、会っても分からないかもしれない。お母さんをよろしく頼むよ。父より」と書いている。

その時は、知る由もなかったが、息子らにとっては、これが父親からの最後のメッセージとなった。「最初はこう思ったんだ。『そうだ、こんなこと長く続くはずがない。すぐに帰ってくる』って。」息子のマシュー・ホーグランドは、ABCテレビにこう語っている。リンダは「リチャードは、私たちの生活をぶち壊したのよ。まったく何も、何一つ残してはくれなかったわ。本当に胸が張り裂けそうに辛かったわ。」と述べている。

家族の苦しみ

リチャードが失踪してから、リンダは家賃や車のローンの支払をすることができず、まるで、家族の前に突如として大きな壁が立ちはだかっているかのように感じていた。さらに、警察当局はリチャードの失踪について、リンダに事情聴取を始める。警察はどうやら、リチャードがどこへ行ったのか、またはリチャードに何があったのかについて、リンダが何か知っているのではないかと疑っているようだった。

そんな警察に対し、リンダは一貫して、リチャードがどこへ行ってしまったのか本当に分からないこと、また、リチャードから電話がきて、もう戻ってくることはないと言われたことを正直に伝えた。それでも警察はリンダが疑わしいと考え、何度も取り調べを行うのだった。しかし、リンダの証言は決して揺らぐことがなかった。

リンダに疑いがかかる

そのうち、捜査をしていた刑事が、リンダは夫がどこに失踪したか知っていると断言した。その刑事は、リンダと夫リチャードは共謀して話をでっち上げ、借金問題を帳消しにしてから、また時期を見て会うようにしているはずだ、と断言した。警察に何度も取り調べをされる一方で、リンダはもっと大きな問題、つまりは、金銭問題に頭を抱えていた。

リチャードが失踪することでリンダに残された借金は、すでに莫大に膨れ上がっていった。もはや支払いを続けることができなくなり、とうとうリンダは自己破産をするしかなくなったのだ。一家の稼ぎ手を失った今、2人の子どもがいる女性にとって、これは最悪のシナリオだった。

誰かに見張られている?!

家族と一緒に暮らしながら、自分が作った金銭問題をなんとかする代わりに、リチャードは安易な”失踪”という道を選択した。その結果、残された家族の生活は犠牲になったのだ。リンダはこの悲惨な時期を切り抜けるため、自分の両親に頼らざるを得なかった。

そして、そのうち、リンダは誰かに見られているような形跡があることに気づく。やがて、それは確信に変わっていった。知らない人に後をつけられたり、家の外に車が止まっていて、こちらの様子をうかがっていたり、郵便物が明らかに開封され、再び封をされていたり、さらには家の中のものが動かされていたりするのだった。

身をひそめる

2月のある日、ついにリンダの父親が、電話線に録音機器が取り付けられているのを発見する。おそらくリチャードは、たちの悪い人に関わっていたために、行方をくらませたのだとリンダは確信した。「そういう状況にいると、だんだんと被害妄想が膨らんでくるものです。」とリンダは述べている。そうこうするうちに、銀行はリンダらの住んでいた家を差し押さえ、車も回収してしまった。

その年の10月、リンダらはインディアナ州のマッコーズビルに引っ越して、ガラの悪い人たちから身をひそめることを決意する。自分自身と子どもたちの安全を確保するのに必死だった。リンダは支払先住所をすべて両親の住所に変えた。これで支払先から居所を突き止められることはないだろう。さらに、子どもたちには友達の家からスクールバスに乗るようにさせた。これらはすべて、家を特定されないようにするためだった。

被害妄想に

リンダと子どもたちは、6ヶ月以上にもわたって身をひそめたが、不安がなくなることはなかった。常に心配や不安が付きまとい、数年間もの間、被害妄想にさいなまれてしまっていた。そして、厄介ごとはまだ続く。リンダはまだ、警察当局から疑われていたのだ。それはまるで、リチャードの失踪から、家族は常に何かに悩まされる運命にあるかのようだった。

一体どうして、リチャードは愛していた人たちにこんな仕打ちができるのだろうか。幸いにも、当時、リンダの両親がまだ健在だったため、リンダらは頼ることができた。ABCテレビのインタビューに答えているリンダの年老いた母親は、この状況のすべてがどれほど大変なものだったかを語っている。

リチャード・ホーグランド、再び現る

2016年、ついに真実が明らかになる。フロリダ州パスコ郡の保安官事務所の刑事、アンソニー・カーディロが、リンダに一本の電話を入れたのだ。「リチャード・ホーグランドについて知っていますか?」長い年月の末、再びこの名前を聞くことになるとは!

どうやら、リンダらが苦しんでいた間にも、リチャードはフロリダ州ウェストパームビーチでのうのうと暮らしていたようだ。元気に、幸せに、そして再婚までしていたなんて!しかも、リチャードは新しい妻との間に息子も1人授かっていた。カーディロ刑事は、リチャードが拘留されていることをリンダに伝えた。リチャードは、死んだ人の名前を使っていた罪で逮捕されていたのだった。

死んだ人になりすます

リチャードは、家族のもとを去った後、家を借り、その家で死亡証明書を見つけた。それは1991年に死亡したテリー・シマンスキーという名の男性のものだった。この時点で、リチャードは自分の名と家族を捨て、別人になりすますことに決めたのだ。

そして、テリーに扮したリチャードは、新しい人生を歩み始める。新しい仕事に就き、家ばかりではなく、再婚相手まで見つけていたのだ。彼はウェストパームビーチでの生活を、かなり気に入っていたようだった。そこには、テリーに扮したリチャードのことを怪しんだりする者はいなかった。

他人の悲しみを利用する

リチャードが借りた家の持ち主は、テリーの父であるエドワード・シマンスキーだった。エドワードは、息子テリーの死からまだ立ち直っていなかった。リチャードは、フロリダ州ポートセントルーシーにあるエドワードの家の近くにあるワンルームマンションに部屋を借りていた。家が近かったため、リチャードはよくエドワードの家に行っては、テリーについての思い出話を聞いていた。エドワードは知る由もなかったが、その間にリチャードはテリーの出生証明書を見つけて、その情報を利用していたのだ。

テリーの姉、シンシア・ブイナクはリチャードが逮捕された後、ピープル誌にこう語っている。「父は本当に悲しんでいて、彼に気持ちを打ち明けていただけなのに…父も被害者だわ。そして、23年経っていたとしても、悪いことの真実は必ず明らかになるのよ。」

最終的に、逮捕される

リチャードの生活が崩壊したのは、テリー・シマンスキーの本当の甥が、アンセストリードットコムというサイトで、自分の先祖について調査をしたためだった。調査していた甥は、ある日、不自然なデータを見つける。数年前に死んだはずの叔父が、どういうわけか再婚し、パイロット免許まで取得しているのだった。

そこで甥は、警察当局に連絡し、そこから数々の真実が明らかになっていったのだ。2016年7月、息子ダグラスの誕生日がある月に、警察はテリー・シマンスキーの家に向かい、リチャード・ホーグランドを逮捕したのだ。リチャードは、パスコ郡の刑務所に、保釈金25,000ドルで拘留された。

リチャードの罪について

長い年月の末、やっとリチャードは、法的にも道徳的にも、自分の犯した罪に問われることとなった。しかし、残念ながら、警察当局が元々の申立てを含む供述を見つけられなかったため、検察官は、リチャードがインディアナ州で犯した窃盗罪について訴追をすることは、なかった。

この窃盗罪には、リチャードがリンダの名前を勝手に書いて借りたローンや、盗んだクレジットカードなどの罪が含まれていた。実は、インディアナ州では、窃盗罪の出訴期限を5年間としているため、それより前に犯した罪を問うことはできないのだ。しかし、死んだ人になりすました罪は、問うことはできる。

2組の家族が犠牲に

テリー・シマンスキーとして暮らしながら、リチャードは再婚して息子をもうけていた。そして、その息子は19歳になっていた。リチャードの2組の家族は、もちろん兄弟を含め、互いに面識がない。リンダは「お気の毒に思います。あちらのご家族は、私たちが経験したのと同じことを、これから経験されるのでしょう。お気持ちをお察しします。」と語っている。

リチャードは、これで、愛していたはずの2組の家族の人生を台無しにしてしまったことになる。すべては彼の行動の結果だ。その一方で、リンダの弁護士であるトム・マークルは、”リチャードはおよそ200万ドルほど未払いの養育費を支払うべきだ”とし、賠償金を請求している。リチャードは、テリー・シマンスキーになりすました賠償金も払わなければならないだろう。

リチャードの再婚生活

テリー・シマンスキーに扮したリチャードは、1995年にメアリー・ホスラー・ヒックマンという名の女性と再婚し、フロリダ州ゼファーヒルズに居を構えた。息子にも恵まれ、リチャードが逮捕されたとき、息子はまだ未成年だった。

リチャードのフロリダの家族は、こうした事態に沈黙を守っていたが、タンパ・ベイ・タイムズ誌は、逮捕後にメアリーがリチャードの身分証明書やルイジアナ州の不動産の権利書、倉庫のカギの入った書類入りカバンを見つけたと報じている。刑事らの話によると、この未成年の息子は、かなりのショックを受けていたという。犯罪者であっても血のつながりのある父親だったのだ。だが、シマンスキーが自分の本当の名字ではないことなどについて、心の中は怒りや悲しみが混ざり合っていて、なぜなのかという気持ちでいっぱいだったそうだ。

息子の受難

長い年月の間に、リチャードは息子達に数回カードを送っているとはいえ、リチャードが家族にしたことは簡単に忘れられることではない。特に2人の息子のマシューとダグラスは、リチャードの行動によって、取り返しのつかないほどに被害を受けたのだ。マシューは、母親を守ろうと必死になった一方で、ダグラスは、父親の失踪に動揺が抑えられず、精神的にこたえているままだった。結果的に、彼はドラッグ関連の罪で、何度も刑期を務めることとなる。

ダグラスが父親リチャードに宛てた手紙をピープル誌が入手した。彼は父親の失踪のせいで、自分の怒りを抑えることができず、自分は何か欠陥がある人間なのではないかと思っていたと書いている。そして、ドラッグに走ったのだ、と。彼は父親のことを許すと言っているものの、父親に「なぜ失踪したのか」と問いたいという。

悪い手本

ダグラスの兄、マシュー・ホーグランドは33歳になり、現在は家庭も持っている。そして、だからこそマシューもどうやったら自身の家族を見捨てられるのか、と理解に苦しんでいた。マシューは当初、父親が戻ってくると信じていたが、何か父親に悪いことが起こり、それで姿を消さなければならなかったのだろうと思うようになっていた。

マシューは、父親の指輪を今でも身につけている。これは、「悪い手本を残した父親のことを忘れないためで、自分は決して同じことを自分の家族にしないためだ」と言う。これを聞いて、年老いた母親のリンダは喜んでいる。こうした理由からマシューは、家族から離れずに、近くにいてくれるのだ。

未だに説明なし

全ての謎が解明されてからも、リチャードは失踪した理由について話すことを拒否し、何の釈明も行っていない。経済的苦境にあったという申立てや、なぜリンダの名前を使って借金をしたのかなど関しても、一切の回答をしていないのだ。本物のテリー・シマンスキーの家族は、リチャードがテリーの父親の悲しみを知っていながらも、それを利用してなりすましていたことに、深く傷ついた。

テリーの死を嘆き悲しんでいた父親は、その悲しみをリチャードに打ち明けたが、リチャードはその死亡証明書を盗み、聞いた情報を利用するに至った。なぜこのようなことをしたのか、なぜそこまで必死になって家族のもとを離れなければならないという考えに至ったのかについて、リチャードが釈明をすることは、今後もなさそうだ。1つだけ確かなことは、真実は、それから逃れようとしてどこに行こうとも、何をしようとも、必ずや明らかになる、ということだ。

失踪の増加

今日の社会において、完全に行方をくらますことは難しい。逃亡中にも出会うたくさんの人々や、現代の通信技術も相まって、誰にも気づかれずに、ましてや見つかることなく逃げ切ることは困難だ。そして、これまでの人生をすべて捨て去り、新しい人生を始めようとしたのは、リチャード・ホーグランドだけではない。

激しい罪悪感を抱いていようとなかろうと、これまでの判断が良かろうと悪かろうと、人生に退屈していようといまいと、中には、最善策を取ろうとして、姿を消すことを選択する人たちもいる。これからご紹介するのは、失踪後、何年も経ってから生きて見つかった人の謎に関する物語だ。

ペトラ・パシツカ

ドイツで生まれ育ったペトラ・パシツカは、24歳の女性で、大学に在籍しコンピューターサイエンスを学んでいた。彼女の生活は極めて普通、その辺にいるごく平凡な女子大生だった。しかし、だからこそ、1984年に突然、彼女が失踪したのは、奇妙で不審なことのように感じられたのだろう。

ある日、ペトラは歯医者に行った後、弟の誕生日を祝うために、公共交通機関を使って両親の家に向かっていたはずだった。しかし、ペトラは飼っている鳥の世話を隣人に頼むと、家のカギを渡し、銀行口座から4000ドイツマルクを引き出している。そしてその後、ペトラが両親の家に着くことはなかった。彼女の失踪についての謎は、ここから始まるのだ。

調査開始

ペトラの家族は、ペトラが何か恐ろしい事件に巻き込まれたのではないかと、心配していた。そして思いつく限り、ペトラの行方について知っていそうな人に連絡して回った。当然、警察当局にも連絡し、行方不明者としてペトラの捜索が開始された。しかし、それから月日は経ち、ペトラの失踪について、謎は未解決のまま5年の歳月が流れていたのだった。

特に失踪する理由を持たない若い女性が行方不明になったため、ドイツ警察は最悪の事態も予想していた。おそらく若い女子大生は誘拐された後、殺害されたのだろう。長い年月が経っても、何の手がかりも得られない家族は、悲しみに暮れるばかりだった。

ガンター・K、ペトラ殺害を自白

5年後、ペトラの失踪は、ドイツの犯罪特集番組「参考XY」にて取り上げられた。ちょうどその頃、ドイツ警察は、ペトラの失踪・殺人にガンター・Kという名のレイプ殺人犯が関わっているのではないかと疑っていた。ガンター・Kは、ペトラが行方不明となった地域と同じエリアで14歳の少女を強姦し殺害したことで、有罪判決を受けていた。

殺害に関する目撃者や物的証拠が何も得られないままだったが、ガンター・Kは、ペトラ殺害を認めた。1989年、ペトラの遺体は見つからないまま、死亡したと判断された。その後、ガンター・Kは、ペトラ殺害の自白を撤回している。いずれにせよ、警察当局には何の手がかりも得られなかった。

31年後、ペトラ発見

30年以上もの月日が流れたある日、芸術とファッションで知られる都市、デュッセルドルフにて強盗が報じられる。警察は、強盗についての手がかりをつかもうと、近所に住む女性の家を訪ねた。しかし、名前を聞かれた56歳のその女性は、長年、身分を偽って暮らしていたことを自白したのだ。

そして、本当の名前を聞かれたとき、彼女は「ペトラ・パシツカ」と答えた。ドイツで見出しを飾った事件であったこともあり、警察はすぐにペトラ・パシツカが失踪した女性であることに気づいた。殺害され、死亡したと誰もが思った女性は、生きていたのだ。しかもごく普通の生活を送っていた。

家族と連絡を取ることを拒否

ペトラはそこで、身分を偽って数年間働いていたことを認める。すべての支払を現金で済ませ、銀行口座を持たず、運転免許証やパスポートを取得することもしなかったため、彼女は自身の記録をどこにも残さず、完全に所在をくらませることに成功していた。ペトラはなぜ失踪したのかについて理由を語っていない。

警察の捜査員、ダーク・ボスはこの事件に関わっていた1人だった。姿を消している間に、ペトラの父親は亡くなっていたが、ボスはペトラの母親と弟に連絡し、ペトラが生きていることを伝えた。ボスはてっきり、ペトラが家族に会いたがっていると思っていたものの、予想に反して、ペトラは家族に会うことを拒否したのだった。そのため、家族は混乱し、深く傷ついた。果たして、彼女の失踪理由はなんだったのだろうか。さぁ、これ以上に謎の物語をご紹介しよう。

フィリップ・セサリゴ

次の物語は、行き過ぎた夢想家の失踪にまつわる話だ。フィリップ・セサリゴは、長年の間、多くの人をだましてきた。イギリスで生まれ育ったフィリップは、若いときには英国陸軍砲兵隊で勤務し、いつか英国陸軍特殊空挺部隊(SAS)のエリートになることを夢見ていた。訓練に励み、2度ほど志願したものの、その夢がかなうことはなかった。

そして、彼はこのとき、別人になりすまして生きることを決意するのだ。SASに入る夢が叶わなかった為に、これまでの経歴を自分の名前と共に捨て、人生をまったく新しく始めることにしたのだ。そして、フィリップは、SASのエリートになりすますことにした。

セサリゴ、自動車爆弾で死亡

フィリップの娘、クレア
初めに、フィリップ・セサリゴは、自分の名前を消すため、フィリップは死んだということにした。フィリップにはダイアンという名の妻と、クレアという名の娘、息子のポールがいたにも関わらず、夫として、父親としての生活をこれ以上続けたくはなかったのだ。そのため、家族を捨て、自身の死亡を装うことを決めた。ドキュメンタリー映画の制作者であるジェームズ・ロスは、「これまでに何をしたとしても、フィリップにとってはSASのエリートになるということが、すべてだったのでしょう。」と述べている。

この詐欺師は、自分がクロアチアで自動車爆弾によって死亡したように見せかけた。フィリップの妻や子どもらには、彼は死亡したと伝えられた。

ベストセラー作家、トム・カリュー

フィリップは、生まれ変わった新たな自分がSASメンバーのトム・カリューであるということにした。しかし、それだけで大人しくしているような彼ではなかったのだ。この新しい「トム・カリュー」となったフィリップは、アフガニスタンでSASとして秘密工作を行ったことについての本を執筆するのだ。「ジハード!アフガニスタンでの秘密の戦い」と題したその本は、ベストセラー入りを果たし、なんと4万部以上を売り上げ、出版した年の終わりには、10万部に到達することが予測された。

そして、2001年、トム・カリューは一躍有名人となり、テレビ番組にまで出演し、(事実ではない)SASでの20年の経験についてや、中東情勢についてコメントした。

トム・カリュー、嘘が露見

本が出版され、ベストセラーとなってから2年が経過したころ、BBCテレビによって、嘘が発覚する。ニュースナイトの番組スタッフが、トム・カリューは自身が説明する人物とは別人なのではないかと疑い、経歴について調べ始めたのだ。そして、トム・カリューがSASで勤務した記録がまったくないということが判明し、さらには、本当はフィリップ・セサリゴという男ではないかというところまで疑い始めた。

カメラを回しながら、レポーターであるジョージ・アイキンは、SASメンバーであれば誰もが答えられる質問をトム・カリューに投げかけた。そしてトム・カリューは答えに詰まった挙句、インタビューをやめるように怒り出し、BBCカメラを殴った。さらに、トム・カリューを追いかけようとしたカメラマンのポール・フランシスを突き飛ばす事態にまでなった。

セサリゴ、死亡が確認される

フィリップが生存し、さらに別人になりすましていたことを知り、元妻と子どもらはショックを受けたに違いないが、フィリップは家族に連絡を取らず、そのまま身を隠し続けた。2009年1月、フィリップ・セサリゴはベルギーのアントワープにあるレンタル車庫の中で死亡が確認された。遺体は5ヶ月以上、誰にも見つけられなかったため、腐敗が進んでいた。フィリップにその車庫を貸し出していたオーナーが、レンタル料が未払いであるために様子を見に行ったところで、遺体が発見されたのだ。

55歳のこの男は、調理器具やベッドを含む、わずかな所有物に囲まれ、車庫に潜んでいる間に死亡したのだ。捜査官らによると、フィリップはおそらく詐欺行為によって、彼のことを嫌う人々から身を隠していたのだろう。

アーサー・ジョーンズ

20年以上連れ添う妻と、3人の子どもたちと共に、シカゴ郊外に住むアーサー・ジョーンズは、街で商品仲買人をして生計を立てていた。しかし、その妻に知られることなく、アーサーにはギャンブルで負けた多額の借金があった。バスケットボールの1試合に賭け、1日に3万ドルも負けることもあった。失踪する数ヶ月前、アーサーは商工会議所の在籍資格を売却し、21万ドルを清算しようとしていた。そして、その後まもなく行方をくらませたのだ。

ある日の午後、アーサーは仕事の会議に遅れるから急いで行かなければならないと、普段着のまま家を出た。妻のジョアンは何かおかしいと思ったが、その予想は的中した。そして、これがアーサーを見た最後になったのだ。

アーサーの失踪

翌日、ジョアンは直感を信じて、アーサーが行方不明になっていることを警察に届け出る。この事件の担当者らは、アーサーの車をシカゴ・オヘア国際空港で発見する。さらに、捜査官らはサングラスも発見したが、その後の捜査は行き詰まってしまう。長い年月が経っても、何の手がかりも得られなかった。ジョアンと子どもらは、何の音沙汰もなく残され、そのうち、アーサーは行方不明のまま、死亡したと断定された。

アーサー・ジョーンズが再び現れるまで、32年の歳月が流れていた。捜査員らがアーサーの所在を突き止めたことで、残された家族は、アーサーが自分勝手な行為によって多額の借金を家族に押し付けた挙句、人生をリセットしたいがために失踪したことを知って、衝撃を受けた。

アーサー、ラスベガスで見つかる

ギャンブル依存症の人が謎の失踪を遂げたなら、歓楽都市、つまりラスベガスを探すといっていいだろう。そして実際、アーサーはそこにいたのだ。2011年7月、アーサー・ジョーンズは、ラスベガスで偽名を使ってノミ屋をしているところを見つかった。悪い仲間の助けをかりて、アーサーはジョセフ・サンデリという人の社会保障番号(マイナンバー)を盗み、それを不正に使用して、生活していた。

アーサーは、運転免許証まで持っていた。さらには税金も払い、ジョセフ・サンデリとして投票までしていたのだ。アーサーは、他人の社会保障番号を盗んだ件や詐欺行為を含む、4件の罪に問われている。

行方不明者

人は、様々な理由があって失踪することを忘れてはならない。それぞれの立場において、その理由は、衝撃的であったり、悲しいものであったりするが、事件が終結していない場合、残された家族や友人は、混乱と動揺をずっと抑えられないまま過ごすのだ。人生をリセットしたいがために家族を捨てた人の場合、失踪した理由が明らかになったときには、手厳しい結果が待っている。

しかし、子どもが行方不明になる場合は、誰にとっても心が張り裂けそうな痛みを伴う。お次は、アラバマ州で母親から引き離された幼児の物語だ。行方不明になってから13年間、母親はすでにその子はもう生きていないと思っていた。

5歳の男児、行方不明に

2002年8月、ボビー・ハナンデズは、アラバマ州の息子と前妻が暮らす家に向かった。夫婦はすでに離婚し、別居していたが、以前からボビーは前妻に対し、別れるなら自分が息子を引き取ると脅していた。そして夫婦が離婚すると、親権争いが勃発したのだった。

ある日、ボビーは息子のジュリアン・ハナンデズを迎えに行き、幼稚園に連れて行く予定だったが、幼稚園には行かず、息子を連れて逃亡した。前妻には、息子は自分が育てる、と言うメモを残して。そして、母親はその後13年間、息子の姿を見ることができなかった。やがて、彼女はうつ病になり、自暴自棄となってしまう。

父親、息子に偽の名前をつける

ボビーは息子を連れだした後、息子に対し、母親は彼を捨てたのだから、今後は自分と2人で生きていかなければならないと言い聞かせた。ボビーは車でオハイオ州に向かい、クリーブランドで偽の名前を使って生活することとなる。ボビーは、ジョナサン・マンギーナという名前でオハイオ州の運転免許証と社会保障番号(マイナンバー)カードを取得していた。

さらに、ボビーは息子にも偽の名前と社会保障番号を入手した。息子はそのうち、クリーブランドの近所の人たちから「J.J.」というあだ名で呼ばれるようになる。アラバマ州を出てから13年後、ジュリアンは18歳になり、大学に入学願書を提出しようとしていた。そして、これによって、ジュリアンは何かがおかしいことに初めて気づくのだ。

ボビー・ハナンデズ、捕まる

オハイオ州のジュリアンとボビー・ハナンデズの家
「J.J.」は高校でも優秀な成績をおさめ、大学に進学しようとしていた。そのため、大学進学カウンセラーと面談をしていたのだが、その時初めて、自分の社会保障番号と名前が一致しないことを聞かされる。詳しく調査が進められ、J.J.の本当の名前が、行方不明者および搾取された子どもたちのためのセンターのリストに載っていることが判明した。こうして、事件の真相が明らかになったのだ。

ジュリアンは、本当のことを知ってかなりショックを受けた。父親は優しくて思いやりのある人だったし、ずっとスポーツ教室や学校でジュリアンをサポートしてくれていた。まさか、自分が小さい頃に母親から誘拐されていたとは、知る由もなかったのだ。そして、すぐに、クリーブランドの工場で勤務中だった父親は逮捕された。

悲しみに打ちひしがれていた母親、ニュースを聞いて大喜び

「J.J.」がジュリアン・ハナンデズだということが判明するとすぐに、警察当局はアラバマ州の母親に連絡し、その旨を伝えた。「本当ですか?間違いないですか?本当に?」母親は、何度も何度も警察に確認した。13年もの年月が過ぎ、悲しみに取り乱した母親は、息子がもう生きていないのではないかと、ほとんど諦めかけていた。警部補ジョニー・エヴァンスは、ワシントンポスト誌に「本当に自分の息子だということが分かったとき、彼女は非常に興奮していました」と語っている。

母親は声明を出し、その中で「今週、ジュリアンの生存と所在が分かり、家族は大変喜んでいます。ジュリアンの失踪中もお祈りをあげ、サポートしてくださった皆さんに感謝したいと思います。」としている。アラバマ州を離れてから13年後、ジュリアンは、初めて母親とサンクスギビングを過ごすためにアラバマ州に向かったのだった、。

ボビー・ハナンデズ、拘留される

ジュリアンは、父親を釈放してほしいと、公判で訴えた。裁判官に「たとえ他の人は、父のしたことを許せなかったとしても、僕は許します。僕は父が大好きですし、これからも僕の人生に共にいてほしいと思っています。」と述べている。また、父のおかげで学校でも頑張れていたこと、そして大学にも進学できているのだとも話した。

ボビーは、誘拐、偽造、記録改ざん、親権の妨害を含む32件の容疑すべてについて、無罪を主張した。しかしながら、2016年4月、裁判官らは32件すべてにおいてボビーは有罪であるとの判決を下し、オハイオ州で懲役刑判決を受けた。

行方不明になった赤ん坊

1998年、16歳のシャネラ・モブリーは、フロリダ州ジャクソンビルで女児を出産し、カマイヤと名付けた。しかし、出産からわずか数時間後、突如として赤ちゃんは誘拐され、二度と会えなくなってしまった。新生児が行方不明になったニュースは、当時アメリカ国内のメディアの見出しを飾った。そして運の悪いことに、産後すぐだったために、手がかりとなるような写真さえ存在しなかったのだ。

そのため、手がかりとするべく、パソコンで赤ちゃんの合成写真が作成された。だが、この事件に関して、捜査対象は広く、2000件以上もあった。それから数年間もの間、カマイヤが見つかることはなかった。シャネラは毎年、カマイヤのために誕生日ケーキを作り、赤ちゃんに思いをはせるのだった。「もし、この手に赤ちゃんを抱き、赤ちゃんがそばにいてくれるなら、どれほど幸せなことでしょうか。」彼女はニュース局でこう語っていた。

全国ニュース

新生児が誘拐されたニュースは、瞬く間に全国ニュースとなり、16歳の母親シャネラが涙を流して嘆き悲しんでいるところが報じられた。

ニュースでは、シャネラが泣きながら「はじめから赤ちゃんを手渡さなければよかったのに。どうか…赤ちゃんを、どうか返してください。子どもがいないなら、妊娠しているように見せかけたり、その、つまり、子どもを産むことができないなら、私の気持ちが分かるでしょう。私はまだ16歳だけど、感情もあるし、初めての赤ちゃんなのに…」シャネラの家族は、空っぽの赤ちゃん用ベッドや、開けられることもないおもちゃを前にして、悲嘆に暮れていた。

心配するおばあちゃん

シャネラの祖母もまた、1998年のインタビューに答えている。「赤ちゃんの健康について心配しています。赤ちゃんはどうなってしまうのでしょう。孫も心配です。あの子は精神的に参ってしまっているのです。」

カマイヤの祖母、つまりシャネラの母もまた、誘拐から10年後、フロリダ・タイムズ・ユニオンのインタビューでこう答えている。「シャネラの部屋に入るときに(カマイヤを誘拐した)女性と子どもにすれ違ったのを覚えています。もしあの時、直感に従っていたらと、今でも思います。あの時、何かできたはずなんです。あの女性を素手でも引きとめることができていたでしょう。」

アレクシス・マニゴ

2016年、何も知らないアレクシス・ケリー・マニゴは当時18歳、サウスカロライナ州のウォルターボロに住んでいた。ごく普通の平凡なティーンエージャーであった彼女は、ちょうど高校を卒業したばかりで、彼氏もいた。アレクシスと母親のグロリア・ウィリアムスは仲のいい親友のような親子だった。

親子をよく知る友人は、アレクシスとグロリアについて、「いつも一緒で、いつも幸せそうでした。まるで親友のような親子でしたね。」と語っている。彼女らの隣人も、グロリアはソーシャルワーカーとして働きながら娘を育てている、思いやりのある母親だと述べていた。この親子関係には何の欠陥もなかった。一緒にネイルサロンにも行くような、本当に仲良し親子だったのだ。

タレコミ情報

2016年、2件の匿名のタレコミが行方不明者および搾取された子どもたちのためのセンターに入った。カマイヤ・モブリーの誘拐事件は、この時点ですでに未解決事件(コールドケース)になっていたが、カマイヤが別人として街にいる可能性を調査するため、サウスカロライナ州ウォルターボロに刑事が派遣された。

ニューヨークタイムズによると、「捜査員らは、カマイヤと同じ1998年7月10日生まれの女性がいることを見つけました。もちろん、名前は変えられていました。書類が不正に改ざんされていたのです。そして『インタビュー・ウィズ・ピープル』は、2人の女性、つまりカマイヤとアレクシスが同一人物ではないかという説を支持しました。」

18年後

サウスカロライナにあるアレクシス・マニゴが育てられた家
18年後、シャネラ・モブリーの娘は、フロリダ州から数時間ほど離れたサウスカロライナ州でその生存が確認された。カマイヤ・モブリーは、アレクシス・マニゴとして別の州で育てられていたのだ。アレクシスが行方不明のカマイヤ・モブリーではないかというタレコミが寄せられてから、DNAテストによって、それが真実であることが改めて証明された。

すぐにカマイヤと、赤ちゃんの無事を聞いて喜ぶ本当の家族との面会が予定された。カマイヤと本当の家族は、フェイスタイム(テレビ電話)で初めて顔合わせをし、カマイヤの祖母は「神様が奇跡をおこしてくださいました。お祈りが聞き届けられたのです。」と、その喜びについて語っている。

どのようにして、この事件が起こったのか

カマイヤを誘拐した女性は、グロリア・ウィリアムスという女性だった。1998年7月10日、カマイヤが生まれた日、グロリアは、何も知らないシャネラ・モブリーが出産するときに、看護師に扮して世話をしていたのだ。

シャネラらは、グロリアがその病院で勤務する看護師だと思っていた一方、病院の方では、グロリアはシャネラを訪ねてきた家族だと思っていた。保安官の調査報告書によると、「容疑者は、被害者の部屋にとどまり、被害者の世話をしていた。」とある。そして、グロリアは赤ちゃんの健診をすると言って赤ちゃんを連れだし、そこから二度と戻らなかったのだ。

でも、どうして?

実は、グロリア・ウィリアムスは9ヶ月の妊娠期間後に流産し、悲嘆に暮れていた。流産する前に、グロリアはすでにベビーシャワーをし、赤ちゃんに付ける予定だった名前、つまりアレクシスという名前の入った贈り物ももらっていた。

情報によると、流産により、グロリアはノイローゼになっていたようだ。そして、フロリダ州のカマイヤが生まれた病院まで数時間かけて運転し、赤ちゃんを誘拐した後、アレクシス・マニゴとして育てることにしたようなのだ。以降18年間、グロリアは、サウスカロライナ州でアレクシスを幸せに健康な女性に育てており、子どもに危害を加えようといった意図もまったくなかった。

裁判にて

カマイヤは本当の家族のもとに帰されたものの、18年間母親だとずっと信じていた女性が刑務所に送られるのを見るのは、それこそ身を切られるような思いだった。グロリアはサウスカロライナ州のウォルターボロにあるコルトン郡の拘置所に収監され、誘拐を実行したフロリダ州に引き渡された。

「お母さん、愛してる。」カマイヤ-アレクシスは泣きながら、拘置所の金網スクリーンの向こう側にいるグロリアに投げキスをした。カマイヤはまた、フェイスブックに「彼女は母親として、必要なものすべて、そして私が望むものすべてをくれました。私の母は重罪犯罪者ではありません。何も知らない人には、そのことが分からないのです。」

家族の再会

カマイヤの誘拐罪について、法的な手続きが行われている間にも、本当の家族はカマイヤに会うためにサウスカロライナ州に来ていた。

ABCニュースのインタビューに答えたカマイヤは、血のつながりのある家族のことを知りたいし、家族になれるかどうか、じっくり考えたい、としている。「血のつながりのある肉親が良い親になれないと言っているわけじゃないんです。そういうつもりは全くありません。ただ、ずっと離れて、彼らのことを知らずに生活を送ってきました。そして、家族が他にいるということが分かったとき、それは、今以上に愛情が注げる存在が増えたということになります。」カマイヤの本当の父親であるクレイグ・アイケンは、地元のニュース局の取材に対して「初めての対面は素晴らしかったです。これ以上にはないほどに。彼女も私たちに会えたことをとても喜んでくれました。」と答えている。

密かに知っていた

どうやら、カマイヤは全国ニュースになる数年ほど前から、誘拐について知っていたようだ。地元のレストランでアルバイトをしようとして、出生証明書と社会保障番号などの情報を雇用者に提供するよう求められたのだ。

グロリアに書類を出すようお願いしていたのだが、グロリアはその話題を避けようとしていた。カマイヤの異父妹の妹であるアリカ・ウィリアムズは、ピープル誌にこう答えている。「アレクシスはお母さんにきつく言ってたわ。『お母さん、私の書類はどこなのよ、この仕事につきたいのよ!』ってね。それでお母さんは、泣き崩れて、私たちに理由を説明したわ。誘拐した子なのよ、だから書類をあげられないのって。」

母親をかばう

警察当局は、カマイヤが誘拐についてもっと知っているのではないかと考えていたが、情報筋によると、カマイヤは母親をかばうために慎重に言葉を選んでいるようだった。カマイヤを誘拐した後、18年間育てたグロリアには、終身刑が下される可能性がある。

カマイヤは、ABCニュースに「お母さんがやったことが間違っていることは分かっています。でもそれだけで、彼女が酷い人だとは思わないでください。お母さんは18年間ずっと私のことを愛情をかけて育ててくれました。」と述べている。カマイヤは、自分の発言を母親の裁判に利用されたくないため、母親を守らなければならないと感じているようだった。

カマイヤの「父親」

チャールズ・マニゴは18年間ずっと、自分がカマイヤの、いやアレクシスの父親だと信じていた。ABCニュースのインタビューに対し、チャールズは「私が名前をつけてやったんです。ずっとアレクシス・ケリーとつけようと思っていたんです。私にとってアレクシスは、私のすべてでした。毎日話もしていました。現在は、望んでもいない注目を浴びてしまって、アレクシスは困惑しています。まだ彼女も、自身に起こったことを理解しようと必死なんです。」と答えている。

「私にとってももちろんショックですが、当人にとってはもっとショックは大きかったことでしょう。金曜日にアレクシスが言ったことの中で、最も辛かったのは、すべてを知ってもなお、『お父さん、愛してるよ』と言ってくれたことでした。アレクシスは、私の可愛い娘です。彼女と同じくらい、私も愛しているのです。これは変わりません。アレクシスは私のすべてです。私のかけがえのない娘なんです。」

「何もしていない」

チャールズ・マニゴのインタビューが放送されてすぐに、アレクシス・ケリー・マニゴと思われるフェイスブックユーザー、いやむしろ被害者のカマイヤ・モブリーが、チャールズ・マニゴは、自分にとっては父親でも何でもないと答えている。

アレクシスはさらに、「そばにいてくれたのは、グロリア・ウィリアムスです。ではチャールズ・マニゴは誰でしょうか。チャールズは中古車販売店で働いているにもかかわらず、私に初めての車を買ってくれたのは、おじいちゃんでした。私はおじいちゃんのことをお父さんだと思っています。おじいちゃんはそれだけのことをしてくれました。チャールズは、私にとってはまったく関係ない人です。」「アレクシス」が生まれてから、チャールズとグロリアは数年間一緒にいたものの、別れた後は親権を分割していたという。

補償金がかかっていた

カマイヤの母親であるシャネラは、赤ちゃんが誘拐された後、ジャクソンビルの大学病院を訴えていた。報告書によると、シャネラと弁護士には190万ドルが支払われ、さらに生涯にわたり毎月3,000ドルずつ合計72.5万ドルが支払われることになっていた。

病院はまた、投資金という形でカマイヤにも30.7万ドルを確保しており、2016年7月10日のカマイヤの18歳の誕生日前までに見つかった場合、カマイヤに渡されることになっていた。カマイヤの発見はそれ以降だったため、彼女にこの資金が渡されたのかどうかは定かではないが、カマイヤに渡されない場合にはシャネラに譲渡されることとなっていた。

再会の後

18年もの年月が経過していたにもかかわらず、娘が生きて見つかったという喜びはひとしおだった。しかし、カマイヤが誘拐犯である「母親」をかばおうとしていることに、シャネラ・モブリーは一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。

シャネラは、自身のフェイスブックで、「今、本当に混乱しているし、落ち込んでもいます。涙が止まりません。娘は私ではなく、彼女を欲しているのです。彼女が見つかったとき、何をおいても彼女のもとに駆け付けました。それでも、まだ16歳の当時のように胸が痛みます。カマイヤ、これを見たら、あなたはこの母親の子どもだと分かってほしい。あなたは私の子どもなのです。そしてそれは変えようのない事実なのです。私の可愛い娘、愛しています。」

その後

グロリア・ウィリアムスの刑が少しでも軽くなるように、カマイヤは法的に闘いながらも、正式な書類をもって、本当の自分を確立しなければならなかった。かつて、グロリアは、1980年代に死亡した男性から盗んだ社会保障番号を、カマイヤのものとして使用していた。

アレクシス・マニゴ、現在はカマイヤ・モブリーの弁護士、ジャスティン・バンバーグは、「こうした事件は起きるべきではなかったことだし、これからも決して起こしてはならないことです。そして、こうした痛ましい事件が起きてしまったときには、当事者の人生は文字通りひっくり返ってしまうのです…運転免許証、社会保障番号、出生証明書など、2017年現在のアメリカにおいて、成人に一般的に必要とされる基本的な書類も含め、すべてが変わってしまうのです。」こうした基本的な書類は、カマイヤの人生をあるべき状態に戻すための第一歩だ。

ルーシー・アン・ジョンソン

ときに失踪の理由は、私たちが考えるようなものではなく、想像していたものとはまったく異なっていることがある。アメリカ系カナダ人のルーシー・アン・ジョンソンは、1961年、8歳の娘リンダ・エヴァンズと息子を残して失踪した。

1954年にルーシーと結婚した夫マーヴィンは、それから4年後の1965年まで、誰にもルーシーの失踪について知らせなかった。そのため、王立カナダ騎馬警察は、何らかの形でマーヴィンがルーシーの失踪(または死亡)に関わっているのではないかと疑い、捜査が行われた。騎馬警察は捜査の過程で、マーヴィンの家の裏庭を掘り返したりもした。ルーシーの失踪を届出なかったのは、彼女が自殺したと思ったからだと主張していた。警察当局は、結局マーヴィンの関与について証拠をあげることができず、また、ルーシーは自身の家族とも疎遠になっていたため、手がかりもまったく得られなかった。じきにマーヴィンは亡くなり、息子もその後を追うようにして亡くなったため、ルーシーの失踪事件はコールドケース(未解決事件)となった。

ルーシー・アン・ジョンソンの失踪の秘密が明らかに

50年もの年月が過ぎ、その間に何人も担当捜査官が替わったが、ほとんどがこのケースを諦めていた。それでも、母親ルーシー・アン・ジョンソンに一体何があったのか、リンダ・エヴァンズの知りたいと思う気持ちがなくなることはなかった。そこで、王立カナダ騎馬警察(RCMP)はルーシーを「今月の行方不明者」のコーナーで取り上げることにした。これによって、メディアはこのケースに再注目することとなり、リンダは母親の失踪の手がかりを何とか見つけることはできないかと思うようになっていった。

2013年、リンダは、母親の失踪について手がかりを得るため、無料広告に投稿する。なかなか思うような手がかり得られない中、最終的に、ホワイトホースのルーシーの娘と名乗る女性から一本の電話を受けたのだった。RCMPのスポークスマンは「ユコン在住の女性から一報を受けました。その女性は、無料広告に掲載されていた行方不明者の写真を見たが、それは自分の母親だと言うのです。運命だと思いました。」
2013年10月、リンダはついに行方不明となっていた母親ルーシーと再会を果たす。ルーシーは、家庭内暴力に悩まされ、暴力から自分の身を守るために、夫から逃げて身を隠すしかなかったと告げた。

レイチェル・エルカイヤム

1947年、イスラエルの家から失踪したレイチェル・エルカイヤムは、まだ16歳の少女だった。レイチェルはアラブ人男性と恋に落ち、駆け落ちしたのだ。まるでロミオとジュリエットのように。しかしながら、この男性はスナイパーによって殺害されてしまう。レイチェルの両親は、彼女がシリアに行き、この男性の兄弟と再婚させられているはずだと主張した。

レイチェルは妊娠しており、じきに男児を産んだ。家に帰りたいと思ったが、息子を連れて帰ることは許されないと言われていた。「そんなことはできませんでした。子どもを愛していたのですから。」彼女は結局、家に帰らず、そこにとどまることにした。駆け落ちした男性の兄弟は暴力的だった。レイチェルは一度、家族に手紙を出そうとしたものの、それが届くことはなかったようだ。

イスラエル大使館

2014年、レイチェル・エルカイヤムの孫の1人が、ロンドンにあるイスラエル大使館に行き、シリアにいる祖母がイスラエルのユダヤ人だと伝えた。レイチェルの両親は、レイチェルに何が起こったのか知る由もなく、すでに他界していたが、レイチェルの兄弟の1人、ジュウラ・エルカイヤムを見つけることに成功した。

2015年12月、ついにレイチェルは残りの家族と再会を果たした。68年も行方不明になっており、レイチェルは85歳になっていた。孫の勇気ある行動がなければ、おそらく、彼女は二度と家に帰ることもかなわないまま、シリアで他界してしまっていただろう。この再会で、レイチェルは家のあるイスラエルに戻り、失踪当時はまだ幼児であった兄弟のアムノンとも再会する。レイチェルは街にある両親の墓参りをし、地中海を目にすることができた。85歳になって、やっと、再びイスラエル市民として登録されたのだ。

ルラ・ギレスピー・ミラー

1974年、28歳のルラ・ギレスピー・ミラーには、3人の子どもを育てられる自信がなかった。そこで、自身の両親に子どもらを預けたまま失踪する。その後、彼女からの唯一の手掛かりは1974年に届いた一通の手紙のみだった。この手紙以外に、インディアナ州出身のこの女性の居所を探す手がかりとなるものは、まったくなかった。この女性の娘であるタミー・ミラーによると、ルラの母親、つまりタミーの祖母は、ルラがいつか家に戻ってくるのではないかと信じて、希望を持ち続けていたということだった。

タミーは祖母エマ・ギレスピーについて、こう語っている。「おばあちゃんは夜になると、いつも玄関の電気をつけたままにしていました。お母さんがいつか帰ってくると信じて。毎日、欠かしませんでした。」エマは91歳で他界し、ルラのその後について知ることはなかった。
ルラの失踪当時、タミーはまだ2歳だった。タミーは言う。「40年も経って何もないのですから、見つかる可能性なんて、普通ほとんどないと思います。」

刑事スコット・ジャービス、ルラ・ギレスピー・ミラーを発見

インディアナ州警察の巡査部長スコット・ジャービスが、ルラ・ギレスピー・ミラー失踪のコールドケースを担当していた時、身元不明人ネットワークから連絡を受けた。スコットは1975年に見つかった身元不明の女性について調べており、家族も事件の終結を願っていた。その後、この女性はルラではないことが分かったが、捜査中に得られた手がかりによって、スコットはテキサスに向かう。

テキサスにて、スコットはルラと思われる女性に接触する。女性は自分がルラであることを認めたが、ルラはまったく失踪について説明や謝罪をしなかった。おそらく、彼女にとっては特に悪いことをしたという意識もなかったのだろう。ルラは連絡先や所在について警察に提供したが、これによって、望みは薄いが、母と娘が和解し、もしかすると再会できるかもしれないと考えた。

めでたしめでたし、とは行かず

母親が生きていた、という衝撃の事実の後、タミー・ミラーは母親ルラ・ギレスピー・ミラーに電話する。しかし、結果は散々だった。電話は2分もたたずに終わったのだ。ルラは「話せるようになったら、こっちから連絡する」と言って電話を切ったのだ。タミーはルラから連絡があることはないだろうと考え、自分からも金輪際、母親に連絡はしないと誓った。

失踪から40年近く経ち、タミーはピープル誌に語る。「これはテレビでよくある、めでたしめでたしの結末ではありませんでした。」長い年月の末に見つかり、お互いに色々な感情がわき起こっただろうし、何か良い方向に行けばいいのにと、一般的には思われるだろう。また、タミーはおそらく、コールドケースを終結させることを願っているだろう。残念ながら、明らかになった真相は、さらに彼女に疑問を残しただけだった。

ルーシー・コーラ・フッド

かつて、DNA鑑定は、警察や調査にとって何の役にも立たなかったことがある。技術はそこまで進歩を遂げていなかったのだ。

そのため、1970年にルーシー・コーラ・フッドが突然その姿を消したとき、当時15歳だった娘グレース・キヴィストにとっては悲劇でしかなかった。家族の口論の後に失踪したのだが、その後、裏庭で遺体が発見された。当時の技術ではDNA鑑定で遺体の特定をすることはできなかったため、グレースは母親が死んでしまったものだと思い、母の死を乗り越え、前向きに生きていた。この後、死んだと思っていた母親が生きていることを知ったときのグレースの驚きが想像できるだろうか。

ルーシー・コーラ・フッド、発見

後に、DNA鑑定の精度があがり、この裏庭で見つかった骨についても鑑定が行われ、検査の結果、ルーシー・コーラ・フッドではないことが明らかになった。この裏庭の遺体が誰のものなのか特定するには至っていないものの、ルーシーではないことは明らかだった。

ルーシーがフロリダ州で生きていることを知ったときの、捜査官や家族の驚きは想像に難くない。ルーシーは84歳で、生涯を通じて精神衛生上の問題をわずらっているようだった。そして、これがおそらく失踪の理由でもあったのかもしれない。結局、ルーシーは合わせて14人の子どもをなしていた。そして、ついに、グレース・キヴィストは母親との再会を果たしたのだった。

リチャード・ウェイン・ランダース・ジュニア

1994年7月、突然行方不明となったリチャード・ウェイン・ランダース・ジュニアは5歳だった。リチャードの父親は、リチャードの世話を両親に任せており、そのため、幼い頃からずっとリチャードは祖父母と生活を送っていた。残念ながら、リチャードの親権が正式に祖父母に決まることはなかった。

ラグレーンジ郡保安官代理のジョン・R・ラッセルは、当時リチャードの失踪事件を担当していた。「法的に親権がリチャードの祖父母にあったのかどうか、分かりません」と語る。そのため、リチャード・ウェイン・ランダース・ジュニアの母親が親権について争う構えを見せ、公判が係争中となったことに、リチャードの祖父母は腹を立てていた。

さらに事態は複雑だった

リチャード・ウェイン・ランダース・ジュニアが行方不明となった当時、母親と祖父母との間で、この「熾烈な」親権争いが繰り広げられていた。リチャードの母とその再婚相手は、職につかず、車で生活をしていた。この騒動に片が付くのを待たずに、祖父母はリチャードを連れてインディアナ州ウォルコットビルの家を出て、二度とその地に戻らなかったのだ。

警察当局によると、「この人たち(リチャードの祖父母)はすごくいい人たちでした。確かに間違ったことをしましたが、その理由も理解できます。ただ、子どもに危険があったとはとても思えないのです。」
もちろん、その後、偽名を使って暮らしていたリチャードがミネソタ州で見つかったとき、すでに19歳になっていた。そして自分が行方不明者ということも、まったく知らなかったのだ。

リチャード、自分が行方不明だとは夢にも思わず

リチャードの失踪後、警察はまったく手がかりを得ることができなかった。祖父母がリチャードを朝食に連れて出てから、その後リチャードを見つけることはできなかったのだ。最終的に祖父母に関する証拠も見つからなかったため、2008年、すべての告訴は退けられた。

捜査官らはリチャード・ランダース・ジュニアの捜索をやめなかったが、母親の再婚相手のリチャード・ハーターがこの少年の社会保障番号カードを引渡してから、捜査は進展を見せる。捜査官らはミネソタ州ロング・プレーリーで、ある男がこの番号を使用していたことを突き止めた。そして、同じ番号を使って、この男に運転免許証も発行されていた。この若い24歳の男性の目の前に警察が突然現れ、祖父母が自分を誘拐したのだと伝えられたときの彼の驚きといったら…

リサ・ランダースは

リチャード・ジュニアが誘拐された当時、職をもたずにホームレスだと報じられたリサ・ランダース(再婚してハーターに)は、自分はアパートに住んでおり、裁判官から一時的な親権を認められていたと、その報道を否定した。

裁判所に認められた親権について手続きを進める前に、リチャードとルース・ランダースは自分の息子を連れて失踪したのだという。この後、警察当局とリサは少年を見つけられないまま19年が経過したのだ。リチャードが生きて見つかったことを聞いた母親は、「もう随分長いこと会っていないので、少し不安です。会いたい、話したい、と伝えたいと思います。多分、泣いてしまうかもしれません。」と言った。

どの程度、理解していたのか

このような誘拐事件の場合、いつ、誰が、何を、どの程度知っていたのかについて疑問が生じる。「本当の」両親について知らない、本当の意味で育ててくれたのは祖父母だと主張するリチャードの証言に対し、この証言がどの程度真実であるのかについて憶測がとんでいる。

リチャードは今や成人し、結婚して子どももいる。そのため、彼がどのくらい知っているのかということは、特に問題ではなく、単に世間の興味によるところだろう。しかしながら、彼の主張を疑う人らは、リチャードが18歳になったときにすぐに名前を変えていることを指摘する。そしてリチャードとその妻は、すべての批判から祖父母を擁護している。

祖父母の弁護

リチャード・ウェイン・ランダース・ジュニア(現在はマイケル・ランダース)は、メディアに対し、こう答えている。「短絡的に考える人らには、物事の全体を知ってほしいと思います。私はいるべき場所にいました。私の『祖父母』は正しいし、他の誰が何といおうと、それは変わりません。」

さらに報告書によると、リチャードが両親と連絡をするかどうかの一切については、リチャード次第だとしている。祖父母が19年間の誘拐罪に関連した罪に問われるのではないかとも言われていたが、実際にそうなったという報道は出ていない。法的な問題は、おそらく示談で解決され、これ以上法的措置を取らないという結論にいたったのではないかと思われる。

リチャード・シニアは

もちろん、事態は少し複雑だ。リチャード・ウェイン・ランダース・シニアは、自身が子どもを育てるには「若すぎ」て、職にもついていなかったため、両親に息子を1年間だけ「一時的に」預け、親権を任せたのだと主張する。どうしてこの「1年間」が5年になったのかについては定かではない。

また、リチャード・シニアと息子の関係を明確に記した報告書はないばかりか、生まれてからずっと両親に預けておいた息子の親権を取り戻そうとしたという記録もない。
しかし、息子が見つかったという報道を受けて、リチャード・シニアは「喜んだ」という。さらに、息子を誘拐した両親を許すと述べており、両親と息子と再び関係を築きたいと願っているということだ。

ボビーの話

マイケル(リチャード・ランダース・ジュニア)の妻、ボビーはフェイスブックにこう投稿している。「彼の『祖父母』は法律に従いませんでしたが、正しいことをしました。時に、私たちの社会の法律は、守るべき人を守れていないことがあります。彼は当時5歳だったため、自分の両親がどんな人たちだったのか覚えています。」

さらに「生後6ヶ月のときから祖父母に育てられたのです。彼は自分が居たいところ、身を守るためにいるべき場所にいたのです。そして、彼は今の彼に成長し、私の夫で、親友になったのです。」と追記している。
警察当局は、リチャードが祖父母といたときに決して危険を感じたことはなかったという見方を支持している。確かに、法的手続きを踏まずに、孫を連れ去った行為は間違っていたが、孫を安全かつできる限り良い環境で「守ろう」としていたようだ。

ランダースの人柄について

マイケル・ランダースは住んでいる地域でも、ちょっとした有名人となった。現在、マイケルは自動車修理工場で働いている。祖父はその地域でも評判の良い人だった。幼児期についての疑問は残るにしろ、マイケルが祖父母から愛され育てられたということは明らかだった。

巡査部長のロン・ガラヴィズは「この18年間、祖父母があたかも自分の息子のようにマイケルを育ててきたのは明らかだ。」とするが、「この事実を24歳になって知った今、どうすべきかについては、神のみぞ知るところだろう。」と述べている。
このように、失踪事件は感情的にもかなり複雑であるのは事実であるが、私たち皆が覚えておかなければならないような誘拐・行方不明についての真実もある。

行方不明者?

そう、これらの誘拐についての物語は、興味深いが、痛ましく、悲劇的なものもあった。その結末が、生きて見つかったというケースでさえ、行方不明者にとっても、家族にとっても、取り返しのつかないほどの影響を受けるのだ。どのようにしたら、このような影響を「乗り越える」ことができるのだろうか。

恐ろしいことだが、40秒に1人、子どもは行方不明になっている。見えない場所に行ってしまう子どもを見て、親が取り乱すのも無理からぬことなのだ。失踪時間は常に重要なカギであり、失踪直後の2時間が特に重要となる。ただし、残念なことには、不安でパニックに陥った親から、必要な詳細について聞き出すのに2時間くらいかかることがあるのも事実だ。そしてこれは分からなくもない。この行方不明となった大人や子どもの物語を読んだ今、何が起こりえるのかについて、少しはご理解いただけたのではないだろうか。時に子どもは生きて見つかることもあるが、悲惨な結末を迎えるケースもある。

どうしようもない現実?

毎年、およそ80万人もの子どもが行方不明となっているが、これには同じように行方不明となっている何十万人もの大人は含まれていない。行方不明者は数多くいるのだ!今後、技術は進歩し続け、新たな失踪事件やコールドケースを解決に導くことだろう。この数字を聞くと、たった1人を見つけるのでさえ、恐ろしいほどに困難であることがお分かりいただけるだろう。

さらに、ご紹介した物語のように、行方不明となった後、終結するまで比較的長引いているケースもある。そうしたケースは忘れ去られてしまう。精神衛生的な問題を抱えている行方不明者にはサポートが得られ、家庭内暴力に悩まされている人も、姿を消す以外にも選択肢が与えられ、その他の行方不明者にも必要な注意を向けられるといった具合に、状況が改善しているのだと思うと少しは気も楽になる。
さらに、技術の進歩に伴い、コールドケースとなったものからも新たな証拠が見つかる可能性もあり、今後、未解決の事件も終結を迎えることもあるのではなかろうか。

【おわり】この記事を見て

この記事を見て思うのはタイトルは興味をそそるものだし、簡単に見れるのならサクッと結果だけ知りたいと誰しもが思うでしょう。

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